大阪からマリーンズを応援し、地元でセレッソを応援するおっさんのブログ

NPBはMarines、JリーグはCerezoを応援する、おっさんのブログ。娯楽もちょこちょこ書いてみます

《NPB雑談》『南海ホークス』が消滅した時代を思い返す

YAHOO!にあった記事です

news.yahoo.co.jp

 

こーゆー記事を見てしまうと、反応してしまいます。

 

ちょうどワタシが高校2年生の年ですね。

 

生まれてずっと

ロッテオリオンズ千葉ロッテマリーンズ

のファンですが、

南海ホークス友の会」には小学4or5年生から

中学3年生まで毎年入会してましたね。

理由は確か¥2,000 / 年 で

帽子にバックに内外野自由席は無料やったので。

 

小学生の時に入会してたんは謎ですが、

中学生の時は、仲間の野球好き・南海ファンと

春休みのオープン戦からレギュラーシーズン終了まで

年間20試合は観戦してましたね。

 

当時の自宅は南海沿線から途中で枝分かれする

当時の大阪都市開発機構が所有していた

泉北高速の泉ヶ丘駅からチャリ15分ってトコ。

チャリ15分ゆーても、丘陵地を造成した

新興住宅地なので、ヤマ2つ越えてみたいな。

平地の15分と違うので、

平地の子とではスタミナが違いましたね。

確実に。

 

ロッテ戦だけ3塁orレフト側に陣取り、

それ以外の試合はライトスタンドに。

中2の時ですね。阪神タイガースが優勝し

その翌年のオープン戦から

トランペット用いた応援が定着し始めた時代。

オープン戦なんかもそれなりの頻度で行ってると

ライト自由席に陣取る応援団の方から

「こっち来て一緒に応援しよ」が

「おっ、にーちゃんら今日も来てるんか?」

になり、最終的には、

「にーちゃんら、応援団入らへんか?」

に3段階変化してましたね。

丁重にお断りしてましたが(笑)

 

そんな南海ホークス

ロッテオリオンズを応援する傍らで

プロ野球好き』として通った大阪球場

大阪スタヂアム興業とか書いてた様な。

 

確か中2の年末だったかな?に一緒に

野球観戦してた仲間、元々がお父様の転勤で

大阪に越してきておられた子が

千葉に戻ると転校し、

そっからはもう一人の子と二人で観戦。

 

中学を卒業し、高校はお互い別の学校。

その子は勉強ようできたので近所の私学に。

ワタシはいけそうな高校探して進学。

 

そんで高校1年生の夏に、

ちとカラダの弱っていた親父のねえさんを

ひとりで置いておくのは危ないと

急遽引っ越しが決まり、泉北からうんと

なんばに近い南海沿線某所へ引っ越し。

 

引っ越してすぐだったかな?

夏休み?かなんかで、親父と一緒に

南海 vs ロッテのナイター観戦に出向き

その試合勝利したことと沿線在住効果?

『めっちゃなんば近いやん』を体感し

調子に乗って次の日も観戦に出向きボロ負け。

『調子に乗ったらアカンな』と言いながら

帰宅した思い出あります。

 

そんで運命の身売りが決まった1988年

記憶ではその前年からまことしやかに

南海ホークス身売り】は囁かれていた様な。

それは中学ん時、一緒に観戦行ってた子が

1987年のどの時期か忘れましたが

大阪球場開催のライオンズ戦?が

急遽、平和台開催に変更になった際に

「身売り」を確信したように予感してましたね。

 

当時のパ・リーグは客席は閑古鳥が鳴き、

毎年、南海電鉄春闘では、労働組合

「ホークス売って給与あげろ」と訴えてる

ってハナシは高校生ながらもフツーに

知っていた話題。

 

記事にもありますように、

大阪はその当時、関西国際空港の建設で、

なんばが【関空の窓口】となるので

再開発の必要に迫られているのも

周知の事実。

でも、ワタシが物心ついての球団身売り劇は

クラウンライター?太平洋?がライオンズを

西武(国土計画?)に身売りした程度。

ただワタシ自身も小さく且つ、

九州から関東への話題なのでピンと来ておらず

【南海、身売りか?】と言われても

現実的に考えることはなかったのかな?

 

高校2年になってから、学年1つ下の幼馴染、

子供の頃から通うスイミングスクールで

選手としては一線を引き、今でいうジム通い

みたいなこと続けてた時期、

そやつも同じようにジム通いしており、

そやつは中学卒業し即就職し、

工事関連の仕事してた関係もあり、

色々と大人から大人のレクチャーを受け

16にして競馬を嗜む様になり

かつ【南海ファン】だったので、

週末近づくと、

「Hjm、週末なんば行こ。

馬券買ってからホークス観に行こ」

と今では考えられんルーズな時代。

 

今のウィンズ難波は、なんばパークス

1Fから地下2階までが馬券売り場ですが、

大阪球場があった頃のウインズ難波、

当時は難波場外馬券売り場かな?があったのは

大阪球場のライトスタンドから

センターバックスクリーンの下。

週末にホークス戦があると、

ライトスタンド下の通路は馬券売場窓口に

なるので、通路は閉鎖状態でしたね。

 

ちょうど武豊の騎手デビューもこの頃?

徐々に【競馬ブーム】が押し寄せていた時代。

ワタシもイキりたい盛やったので

平日、住宅に織り込みチラシを配るバイトの

バイト代となけなしの小遣いで・・・

色々してましたね(自粛)

 

この時期、週末はほぼなんばに居たかな?

大阪球場をベースに。

※当時、土曜日は昼まで学校あったので

 日曜日は。ですね。

 

さらにもう一歩記憶を辿ると、

この大阪球場一帯は、今でいう

アミューズメントパーク」だったですよね?

JRA場外馬券売場があり、

バックスクリーンの裏手には

ボウリングにスケートリンクのあるビルがあり

あの一帯で十分に遊べましたね。

 

ずっと身売りが噂だったのが

確か夏場やったと記憶します。

記事では8月22日に新聞4紙が

同時に報じ、そこからトントンと

ハナシが進んだと。

確か「ゼッタイにホークスは手放さん」と

訴えていた川勝オーナーさんが死去され

そっから現実的に身売りに進んだ?

 

あれは衝撃やったですね。

噂が現実になったのが。

少なからず沿線はザワついていましたよね。

身売り決まってから、大阪球場のゲーム、

結構、観客入ってましたから。

ウチも家族でロッテ戦じゃない

南海 vs 西武 のナイター観戦いったですから。

 

そんでね、南海ホークス最後のゲーム。

1988年10月15日 土曜日

ワタシ、高校の文化祭前日の

【前夜祭実行委員】やってしまっており

前夜祭とブッキングしてしまい、

大阪球場ラストゲームは行けてないです。

ひとつ下の幼馴染はチケットゲットし

南海ホークスを見送りました。

これは未だにワタシの心残り。

前夜祭は前夜祭で、青春の想い出として

非常に大切な記憶。

ブッキングしたことが、、、

今でも心残りです。。。

 

南海ホークスとは?」

 

ワタシにとって、

野球というスポーツに魅了された

入口の1つ。

こうやって記憶を辿ると、

中学校から高校にかけての

青春の1ページ。

 

特に高校生になってからかな。

背伸びしたい年代が

南海ホークス』を入口に

【なんば】という繁華街に身を置くこと

その繁華街で遊ぶことで、

大人になった様なイキった時間を

過ごせた時間。

当時は今ほど厳しい世の中でなかった

とはいえど、

今も昔もNGではありますが

未成年でも色々まかり通った時代。

先に書いた通り、

場外馬券で馬券買ったり、

モクモクもテキトーに嗜み、

それこそ「馬券獲った」ゆーて

お酒しかおいてないお店で晩飯食ったり。

 

そうですね。この時代あたりから

『カラオケBOX』なるものが

世の中に出現し、

馬券買って、ホークスの試合観戦して

お財布事情が許せば、

お酒しか置いてない店で晩飯くって

カラオケBOXで歌うたって。

閉店までゲーセンで遊んで帰宅する。

みたいな。

 

ワタシのエントリーはハナシが

いつもどーり脱線してますね。。。

 

1988年

プロ野球界では、

東京ドームの開場に

南海ホークスに阪急ブレーブスの身売り。

阪急の身売りは寝耳に水。

且つ、パ・リーグのペナント争いが

全国ネットで取り上げられた

オリオンズ vs バファローズ

10.19のダブルヘッダーの盛り上がりに

水を差すような発表だったですね。

 

そういえば、昭和天皇の体調が優れず

【自粛ムード】ってヤツが世間を包んだ、

ワタシの記憶する【自粛ムード】のはしり。

日産セフィーロのCMで井上陽水さんが

「みなさん、お元気ですか」って流行語が

天皇陛下は元気じゃない】ってのが理由で

突然、無声に替わったとか。

 

 

そんな時代。

 

この頃はすでに「バブル経済」に突入してた?

 

古き良き時代ですね。

 

あれから33年。

 

あの当時に思い描いた33年後のジブン。

そこまで考えてなかったか(笑)

 

33年前に先の未来で今の様なこと

想像したことあったかな?

 

ゼッタイにないよね???

 

今から33年後、80歳過ぎとるな。

 

生きてるかな?生きてたとして

子供に迷惑かけてないかな?

 

オチがつかないので、色々思い浮かべると

キリがないので、そろそろオシマイに。

 

南海ホークスは永遠に不滅です』